とおかまち 10の道を歩く−散歩みち−
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歴史を歩く/米と雪と織物のまち、十日町市。この地の気候が米を育て、雪が織物を生みだした。風土と人が織りなす時の流れは、文化となって成熟し、次の世代へと大切に受け継がれてゆく。
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十日町市の歴史


「馬場上ムラのくらし 雪どけごろ」/奈良時代(約1200年前)
「馬場上ムラのくらし 雪どけごろ」
奈良時代(約1200年前)
原始・古代

十日町市はなだらかな山並みに囲まれ、悠々と流れてやまない信濃川と両岸に広がる河岸段丘をもつ十日町盆地、東頸城丘陵の山間に位置する棚田の美しい松之山郷で構成されています。
この十日町市を含む中魚沼・東頸城地方一帯で人類の活動が始まったのは、大変古いと見られています。段丘上のあちこちで数万年前から人類が使ったブレード(石刃)、ポイント(石槍)、マイクロリス(細石器)など旧石器時代の石器類が出土しています。
土器を伴う縄文時代の遺跡は、壬・久保寺南遺跡などの貴重な草創期のものを含め300か所を超えています。中でももっとも数の多い縄文中期(4500年前)の遺跡からは、縄文土器の華とうたわれる火焔型土器が大量に出土しており、その時代この地方が高い文化を誇っていたことをうかがわせます。特に笹山遺跡出土の土器群は平成11年、縄文土器としては初の国宝に指定されました。
このように縄文時代の遺跡が当地方全域にわたって分布しているのに比べ、それに続く米作りの文化を伴った弥生時代の遺跡はわずかで城之古、牛ヶ首、干溝など数か所に見られるだけです。また、古墳時代から奈良平安時代を経て平安時代末期に至る郷土の長い古代の歴史は、遺跡や史料に乏しくほとんど不明です。
古い記録によるとこの地方の大半は魚沼郡に属しています。平安時代の魚沼郡には賀禰、那珂、苅上、千屋の4郷があって、このうち那珂郷がこの地方にあたると考えられています。なお、松代・松之山地域は頸城郡に属し、頸城郡十郷のうちの五公郷内に入っていたと思われます。
昭和49・50年、西小学校建設現場で古墳時代から奈良・平安時代に及ぶ大規模な集落跡が発掘調査され、当地方の古代史を解明する鍵として注目を集めました。この遺跡は馬場上遺跡と呼ばれ、発掘調査の結果、たて穴式住居跡が44軒、掘立柱建物跡が6棟ほど確認されています。出土した遺物には大量の土師器や須恵器などの土器、鉄器のほか首飾りなどに使われた石製の勾玉や管玉があり、また糸に縒りをかける時に使われる紡錘車(ツム)という道具の一部や織物の圧痕が付いた土器なども出土し、機を織る技術を持っていたことがわかります。遺跡の年代については、おおまかに古墳時代中期(5世紀)、後期(6〜7世紀)、奈良・平安時代(8〜9世紀)の3期にわたって集落が営まれていたと考えられています。
また、奴奈川姫を祀る犬伏の松苧神社(大権現)には遠く飛鳥時代(7世紀)に遡る伝承があり、四日町の神宮寺は大同3年(808)、坂上田村麻呂の発願で前年に来迎されたご本尊を祀るために開創されたと同寺の縁起は伝えています。本尊の十一面千手観音立像(県指定文化財)は藤原時代(12世紀)の作です。同様の来迎伝説は友重の長徳寺本尊・観音像にも認められます。
十日町の諏訪神社は創立年不明ですが、承徳・天永年間(1097〜1112)に信濃川の洪水のため、川原から現在の山頂に移されたとの伝承もあり、この時代すでに相当の集落があちこちに形成されていたことを推測させます。



「中世の大井田城ジオラマ」/南北朝時代(約650年前)
「中世の大井田城ジオラマ」
南北朝時代(約650年前)
中世

波多岐庄とか妻在(有)庄と呼ばれていたこの地方の歴史が、ようやく明らかになるのは平安時代末期(12世紀後半)からです。この時代松代・松之山地域は国衙領で松山(松之山)保と呼ばれていました。名湯として知られる松之山温泉の開湯は南北朝時代(14世紀中ごろ)と伝えられています。
治承4年(1180)平氏一門の城資長が越後守に任ぜられ、当地方もその支配を受けることになりましたが、まもなく城氏は木曾義仲に敗れ、鎌倉の将軍源頼家にもそむいて没落していきました。続く鎌倉時代、越後は幕府の知行国になりましたが、やがて上野国(群馬県)より新田氏の一族がこの地方に進出して勢力をはりました。大井田氏、羽川氏、中条氏、下条氏、小森沢氏などがそれです。特に大井田氏は北信濃(長野県)の豪族市河氏と姻戚関係を結ぶなど、この地方の中心的な勢力でした。
大井田氏を中心とする新田一族は元弘3年(1333)の新田義貞の倒幕挙兵に真っ先にはせ参じて以来、建武の中興から南北朝時代に至る動乱の時代に終始一貫して南朝のために働きました。特に延元元年(1336)の備中(岡山県)福山城の合戦で大井田氏経率いる2000騎の軍勢は、足利直義の大軍を相手に奮戦して勇名をとどろかせたのです。この一族は新田宗家とともに南朝の股肱として近畿、北陸、関東へと各地を転戦し、青史に名を刻みました。
大井田城跡(県指定史跡)や節黒城跡(市指定史跡)、坪野館跡をはじめ市内に残る約40か所の城跡や館跡の多くは、当地方が新田義宗を盟主に仰ぎ、越後南朝の拠点となった当時のものと考えられています。また、川西地域に多く残されている自然石を利用した板碑もこの時代のもので、大部分の碑面には、阿弥陀三尊を表わす梵字などとともに南朝年号が刻まれています。
しかし、神宮寺の伝広目天像背板裏面の修理銘文には、応安3年(1370)という北朝年号の記銘があり、2年前新田義宗討死を受けて越後南朝方の組織的抵抗が終息し、長年続いた戦乱から平和が訪れた当時のこの地方の状況を推測させます。
新田氏が南朝と運命をともにしたころ、越後は上杉氏の支配下にありました。大井田氏、羽河(川)氏、中条氏、下条氏、小森沢氏、倉俣氏、上野氏など南北朝期を生き延びたこの地方の新田一族は、上杉家被官として編成され、千手の下平氏などとともに室町・戦国時代に登場してきます。
室町期の越後の支配関係は複雑で、関東管領上杉家と越後守護上杉家の所領が入り組んでいましたが、室町時代半ばから妻有庄は管領家に属していました。やがて、守護上杉家の家臣府内長尾氏が台頭し守護代として実権を握ると、長尾為景の代には守護上杉房能を自害させ、擁立した上杉定実の実権を奪い実質的国主の座に就きます。
松之山の管領塚は為景に追われての敗走途中自刃した上杉房能終えんの地です。
為景の子景虎(謙信)は越後一国を統一し、関東管領職を上杉憲政より譲り受け上杉の名跡も継ぎました。関東管領職を継いだ上杉謙信は、関東経営のため度々関東に出兵します。居城春日山から市内の松代〜城之古〜六箇を抜け塩沢に出て三国街道を行くルートは関東へ抜ける軍用道路として重要視されました。室野城・松代城・犬伏城・琵琶懸城・秋葉山(羽川)城などはこの街道の要所に築かれた城です。なお、街道の一部、菅刈から犬伏、薬師峠までの古道は「歴史の道百選」に選定されていますし、松苧神社には室町・戦国時代の遺品も残されていて当時をしのぶよすがとなっています。
上杉謙信とその養子景勝の代に上杉氏の威勢は伸長し、慶長3年(1598)上杉氏が豊臣秀吉によって会津(福島県)に移封されるまで、戦国大名の雄として、豊臣政権の重鎮として越後に君臨しました。



近世

織豊政権の誕生によって時代は近世に入りますが、上杉氏会津移封後の越後には堀秀治が封ぜられ、次いで江戸時代になると松平忠輝の支配を受けます。その後江戸時代を通じて幕府の越後支配体制は、その大名統制政策などによって細分化され統治者の交代もしばしば行われました。延宝9年(1681)高田藩主松平光長の改易以後、当地は高田藩領から幕府領となり各地に置かれた幕府代官所の支配を受けました。十日町にも一時代官の陣屋が置かれます。享保9年(1724)になって魚沼郡は大部分会津藩の預所となり、以後、一部の変動はありますが、江戸時代を通じてほとんどを会津松平家の支配下に置かれました。ただ川西地域の一部は寛保元年(1741)高田から白河、桑名へと転封となった久松松平家の飛び領として同家柏崎陣屋の支配を受けていました。
頸城郡である松之山郷は同様幕領として推移し高田藩預所として幕末を迎えます。この間にあって十日町は、高級麻織物「越後縮」の産地として大きく成長していきました。
越後の麻織物の生産は古い伝統を持ち、正倉院御物の中に天平勝宝年間(750ころ)に越後から納められた麻布が存在し、平安時代の『延喜式』に越後から布が納められたことも記されています。また、長保元年(999)と同2年には、役所や貴族の下働きの者たちが白越(越後布)を着用することを禁止する法令が出たり、建久3年(1192)源頼朝が将軍宣下の勅使に越後布を贈ったりするなどの記録が見え、越後の麻織物は古くから優品であったことが分かります。室町幕府は夏の出仕着や礼服として越後布の使用を規定していました。さらに、越後は麻織物の原料である青苧の生産も盛んで、室町時代には流通組織として三条西家を本所とした青苧座が組織され、戦国時代には長尾(上杉)氏がその権利を掌握し、青苧生産をも奨励しました。
江戸時代の始め、寛文年間(1661〜1672)のころ、それまでの越後布に改良が加えられ、越後縮がつくられるようになります。この越後縮は武家はもとより夏の高級着物として庶民の間にも需要が増大し、天明期(1781〜1788)には魚沼地方で年間20万反の生産があったと記録されています。
こうした生産の増大から、延宝元年(1673)には縮市場が開設され、やがて十日町は小千谷、堀之内とともに縮の三市場として繁栄していきました。一方江戸幕府は、縮・茶・木炉・杪・白布・続布・小白布の七品に運上請負制度を定め、税の増徴と安定を図ります。このうち大部分は縮にかかる役銭でした。このことからも雪国の主要物産として縮が重視されていたことがわかります。
天明期をピークとして縮生産は漸次衰退し、替わって当地方でも養蚕と絹織物が勃興してきました。この局面に立って十日町は、麻織物から絹織物へと転換を試みます。直接的には文政末年(1830ころ)宮本茂十郎が従来の地機に代えて、高機を導入してその技術を伝え、絹縮(透綾)を創始したことに始まると言われています。
その後、透綾織が完成する明治初期までの30年間は、一方で縮の生産販売を続けながら、新製品について暗中模索してきた十日町絹織物草創期とも言うべき試練の期間でした。この苦難の時期や明治の大火を乗り越えた十日町は、大正から昭和初期にかけて新しい機業地として発展をとげるのです。
江戸時代は鎖国体制のなかで日本の社会・文化が成熟していった太平の時代でもあります。農業技術も進み、新田開発も各地で盛んに行われました。当地方で天明元年(1781)田沢の村山五郎兵衛の願い出から始まった桔梗ヶ原の開田は大規模なものでした。寛政12年(1800)、幕府の巡検使として田沢に逗留した金沢千秋は『越能山都登』を、同行した亀井協従は『績麻録』を著し、当時のこの地方の様子や縮生産の具体的記述を今に伝えています。またこの時代、生産力の向上と縮商いの繁盛を背景に、文人墨客の往来も盛んで諸文芸の発達が顕著になります。特に俳句の普及ぶりは市内各地の社寺に残されている献額にみることができます。


「桔梗ヶ原新田用水路古絵図」/2年間で9キロもの用水路を掘り上げ、原だった桔梗ヶ原を水田へと変えた。
「桔梗ヶ原新田用水路古絵図」
2年間で9キロもの用水路を掘り上げ、原だった桔梗ヶ原を水田へと変えた。



「明石ちぢみ」/「絹織物のまち十日町」の基礎を確立した明石ちぢみ。
「明石ちぢみ」
「絹織物のまち十日町」の基礎を確立した明石ちぢみ。

「ほくほく線」/平成9年ほくほく線開通により、十日町市は首都圏と北陸、関西圏を結ぶ交通のジャンクションシティに。
「ほくほく線」
平成9年ほくほく線開通により、十日町市は首都圏と北陸、関西圏を結ぶ交通のジャンクションシティに。

「当間高原リゾートベルナティオ」/平成8年当間高原にオープンした滞在型リゾートは交流の拠点として国内外から幅広く利用されている。
「当間高原リゾートベルナティオ」
平成8年当間高原にオープンした滞在型リゾートは交流の拠点として国内外から幅広く利用されている。
近代・現代

明治維新によってわが国は近代国家への第一歩を踏み出すことになりました。しかし、地方制度は容易に確立せず、越後においてもその行政府はしばしば変わりました。明治元年(1868)、当地方は小千谷民政局の下に属しましたが、その後なお幾度かの変遷を経て、地域的に一応今の新潟県の体裁が整えられたのは明治6年(1873)6月のことです。同12年(1879)郡区編成法が施行され、魚沼郡は南・中・北の3郡に分けられて、十日町地方は中魚沼郡と称されるようになりました。この時、松代・松之山地域は東頸城郡に属しています。
同22年(1889)市制・町村制が敷かれ、中魚沼郡もさらに村の分合が行われて自治区が定められました。この際、従来の戸長と呼ばれた名称が改められ町村長となり、助役、収入役、書記などがおかれ事務を担当することになりました。同30年(1897)十日町村は十日町となり、同34年(1901)11月の町村合併後、中魚沼郡は多少の変動を経て22か町村となって存続するに至ります。東頸城郡に属す松代・松之山地域でも同様の動きがみられます。
一方、十日町織物は明治20年代になると染色や撚糸技術の改良進歩とドビー・ジャガード機などの新機械の導入によりめざましい進歩をとげ、積極的な新製品研究・開発の結果、大正から昭和の初期にかけて一世を風びした明石ちぢみや、意匠白生地を世に出して絹織物産地としての確固たる地位を築きました。この間、「越後名物数々あれど明石ちぢみに雪の肌…」と唄われる十日町小唄が作られます。同年には現在の飯山線が全線開通し、当地方の動脈として重要な役割を果たすことになりました。川西地域にある国鉄(現JR東日本)の水力発電所が完成し、東京の山の手線に電力を供給するのも昭和十年代からです。しかし、時代はやがて戦時体制に移行し、奢侈しゃし品禁止令や織機の供出などにより十日町織物産地も大きな打撃を受けて終戦を迎えます。
第二次世界大戦という激動の時代を過ぎると、戦後の復旧は急速に進みました。その中で昭和28年(1953)町村合併促進法が制定され、翌年3月に十日町は近隣3か村と対等合併し市制を施行。その後3か村を合わせ市域を形成します。中魚沼郡内では川西町・中里村・津南町が成立し、東頸城郡内でもこの合併により松代町・松之山町が誕生して、平成17年の合併に至ります。
戦後とそれに続く高度成長期に、マジョリカお召や黒絵羽織をヒットさせた織物業界の躍進もあって、十日町市は国内有数の和装産地に成長したものの、その後の苦しい不況も経験して、新しい時代に対応する各種の施策を展開してきました。
昭和50年(1975)には絹織物産地として世界的に有名なイタリアのコモ市と姉妹都市提携を結び、同56年は、いち早く全国一雪に強い克雪都市建設を目指し「克雪都市宣言」を、同59年に「スポーツ・健康都市宣言」を行うなど、長い歴史と伝統を誇る織物を中心に「雪ときものとコシヒカリ」のまちをアピールし、さらには企業誘致を積極的に図っています。
また、年号が平成に変わったころ、21世紀を目指したまちづくりの方向を、「交流を通し若者が活気づく産業文化都市」と位置づけて、魅力あるまちづくりを進めました。
平成8年10月には「雪と緑のふるさとマイ・ライフ・リゾート新潟」に指定されたスポーツフォーラム型リゾートの「当間高原リゾート」が開業。同9年3月には、首都圏と北陸・関西圏を結ぶ「ほくほく線」が開通し、この地域の戦後最大のビッグプロジェクトが花開きます。この鉄道は、昭和6年に松代で始まった建設運動から実に六十余年の歳月をかけた地域悲願の開業でした。また、国県道の整備や、関越・北陸自動車道を短絡する地域高規格道路整備計画など道路網整備の推進により、地域のつながりは一層強固なものになってきました。
平成11年6月には、火焔型土器をはじめとする笹山遺跡出土品(附属品を含め928点)が国宝に指定されました。新潟県では初の国宝、縄文土器では全国初の指定です。この4500年前の先人が残した貴重な財産を、地域の誇りとして「国宝のまち十日町」を国内外に発信しています。情報発信の拠点「十日町情報館」も同年10月にオープンしました。
平成12年から3年ごとに、この地域の里山と現代アートの融合をテーマにした意欲的な試み「大地の芸術祭」も始まりました。昔、妻有と呼ばれた中魚沼地方と、ほくほく線で結ばれた西隣りの東頸松之山郷が一体となって取り組んでいるイベントです。
平成17年4月、こうした交流や地域の結びつきを基に、十日町市、中魚川西町、中里村、東頸松代町、松之山町が新設合併して新たな十日町市としてスタートしています。地域は今、大きな変ぼうのときを迎えました。
十日町市は合併を機に、里山や棚田の豊かな自然に恵まれ、雪国のはぐくんだきもの産業と魚沼産コシヒカリ産地で、縄文以来の奥深い悠久の文化を有する本市の特性を生かして、「交流」をキーワードに活気あるまちづくりを目指しています。



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