とおかまち 10の道を歩く−散歩みち−
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歴史を歩く/米と雪と織物のまち、十日町市。この地の気候が米を育て、雪が織物を生みだした。風土と人が織りなす時の流れは、文化となって成熟し、次の世代へと大切に受け継がれてゆく。
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神宮寺観音堂・山門/県指定文化財(1991年3月指定)/所在地/四日町2 先人の想い/十日町市の文化財/古くから魚沼地方の中心地として独自の文化を発展させてきた十日町市。このまちには、当時の世相や価値観、人々の暮らしぶりを伝えるさまざまな文化財が残っています。先人たちの築いた史跡は未来への資産。このまちをはぐくんできた深くゆたかな土壌にふれ、大切に守り、引き継いでいきたいものです。


神宮寺観音堂・山門
河岸段丘により早くからひらけ、人々が集い、まちを形成してきた十日町市。当時の人々は自然の恩恵を享受する一方で、その生活は世情や厳しい自然条件から、今よりもずっと不安定だったと考えられます。平和で安定した暮らしを願う気持ちはいつの時代も不変のもの。信仰は人々の「しあわせに生きたい」という願いのよりどころであったでしょう。
神宮寺の開創は平安時代の大同3年(808)。前年に本尊の観世音が来迎し、この年七重伽藍が建立されたと伝えられています。その後の仏像解体修理の際に、南北朝時代には神宮寺が「天福山神宮禅寺」だったこともわかり、神宮寺が越後における最古の禅宗寺院ではないかともいわれています。現在の建物は江戸後期に造られたもの。山門は宝暦11年(1761)から明和6年(1769)、観音堂は安永2年(1773)から天明2年(1782)にかけて、20年もの歳月をかけて建造されました。


松苧神社本殿
松苧神社は平安時代の大同2年(807)、坂上田村麻呂が奴奈川姫を祀るために建立したと伝えられます。現在の社は室町期に建てられた県内最古の建造物。古くから松之山郷の総鎮守として松代・松之山66か村の人々に信仰されてきました。かつては上杉謙信をはじめとする戦国武将たちの祈願所であったことも。神社には室町・戦国時代の遺品が残されていて往時を偲ばせます。

松苧神社本殿/国指定重要文化財(1978年5月指定)/所在地/犬伏松苧神社本殿
国指定重要文化財(1978年5月指定)
所在地/犬伏

越後縮幡
越後縮は江戸時代に魚沼地方一帯で生産された越後の代表的な麻織物です。その肌ざわりのよさから、夏物衣料として幕府の式服に採用されたほどでした。腕のいい織子の生地は高く売れるため、家々では自ら織り上げた生地を神社やお寺に奉納し、機織り技術の向上を祈願したといいます。これが越後縮幡の始まりです。のちに健康祈願や家内安全、祈願成就のお礼へと広がり、越後縮幡はさまざまな社寺へと奉納されるようになりました。
市内には古いもので文化3年(1806)を筆頭に、現在74点の越後縮幡が現存し、県指定文化財に指定されています。


越後縮幡/県指定有形民俗文化財(1974年3月指定)/保管/十日町市博物館
越後縮幡
県指定有形民俗文化財(1974年3月指定)
保管/十日町市博物館

板碑
大正元年(1912)、長徳寺で杉の古木の中から板碑が発見されました。板碑とは中世の石造供養塔の一種です。みつかった板碑は1枚の緑泥片岩に阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩の阿弥陀三尊を表す梵字と応長元年(1311)の紀年銘が刻まれています。1311年といえば鎌倉幕府が衰退にむかい、世の中に倒幕の動きが出てきたころ。その約20年後には南北朝の動乱が始まります。市内に残る紀年銘の記された板碑の約半数はこの南北朝時代に造られていることから、数十年にわたる戦乱の世に生きた人々の信仰の様子をうかがい知ることができます。

長徳寺板碑/市指定文化財(1976年3月指定)/所蔵/伊友 長徳寺
長徳寺板碑
市指定文化財(1976年3月指定)
所蔵/伊友 長徳寺


鉢の石仏
鉢集落には松や杉の大木が茂る森があり、その中に200体ほどの石仏が祀られています。
この石仏ができたのは今から約240年前。ある曹洞宗の高僧がこの地で教えを説き、鉢の森で野宿をしていたところ、奇妙な石の上に不思議な「天燈」が降りてきました。師はこの地を永遠の仏法の霊場とするために、その石を本尊として小さな庵を結び、石仏山と名付けて開山したといいます。


鉢の石仏/市指定文化財(1978年1月指定)/所在地/鉢鉢の石仏
市指定文化財(1978年1月指定)
所在地/鉢

星名家住宅
星名家は15代の歴史を刻む妻有地方随一の豪農(豪商)です。江戸時代には酒造業と質屋を営みながら大地主へと発展しました。間口約17間(約32メートル)におよぶ主屋と6棟の土蔵等からなる広大な屋敷は当時の大地主層の暮らしを今に伝えています。
主屋が造られたのは天保13年(1842)。玄関にはケヤキの大戸、雁木には格子がはまり、柱やけた、梁などは太く、その雪国特有の建築様式から、豪雪に耐えるためのさまざまな工夫を見ることができます。
敷地も含め、主屋、蔵6棟、敷地が国の重要文化財に指定されています。


星名家住宅/国指定重要文化財(1991年5月指定)/所在地/上野星名家住宅
国指定重要文化財(1991年5月指定)
所在地/上野

鏡ケ池
奈良時代、蝦夷征伐失敗の罪で追われた歌人大伴家持はこの地に隠棲し、土地の女性との間に美しい娘を授かりました。しかし、母親はまもなく亡くなり、その娘は継母に虐待されます。ある夜娘は耐えきれず、母の形見の鏡を抱いて家を飛び出し、森の中の池のほとりで泣いていました。すると鏡のような水面に母の姿があります。娘は自分の姿とも知らず「お母さん」と叫んで池に飛び込み命を落としました。いつしかその池は「鏡ケ池」と呼ばれるようになり、日本の二大伝説のひとつとして全国へと伝わっていきました。

鏡ケ池/市指定文化財(1979年7月指定)/所在地/中尾鏡ケ池
市指定文化財(1979年7月指定)
所在地/中尾

七ツ釜
清津川の支流釜川をさかのぼり、田代からさらに上流へと進むと、渓流の中から7つの釜(渕)が現れます。名勝七ツ釜。上流から一番滝・二番滝・三番滝・ゆり釜・手洗釜・赤渕・長渕の7つの釜、そして1キロにおよぶ渓流を総称して七ツ釜といいます。川の両岸はそそりたつ柱状節理の岸壁で、左岸は縦層、右岸は断面層という異なった地層を持ち学術的にもたいへん貴重なものです。昭和12年に国の名勝及び天然記念物に指定されました。四季折々の色に染まる美しい渓流と険しい崖の折なす景観は見るものに畏敬の念を抱かせます。
七ツ釜/国指定名勝・天然記念物(1937年6月指定)/所在地/田代七ツ釜
国指定名勝・天然記念物(1937年6月指定)
所在地/田代



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