とおかまち 10の道を歩く−散歩みち−
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歴史を歩く/米と雪と織物のまち、十日町市。この地の気候が米を育て、雪が織物を生みだした。風土と人が織りなす時の流れは、文化となって成熟し、次の世代へと大切に受け継がれてゆく。
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織物の系譜/十日町市織物のあゆみ/織物の街、十日町市。その歩みをたどるとき、数々の苦境をバネに換え、前進してきた十日町のひたむきな姿に圧倒されます。その真っ直ぐな強さを支えてきたものは、きものに懸ける人々の熱い想い。その静かな力は、この町の織物と同じく、雪国ではぐくまれた宝なのです。


雪ありて ちぢみあり

雪国の風土が生んだ越後縮
江戸時代末期まで、越後の特産品として知られた越後縮。麻糸に強い縒りをかけて織り上げ、独特の縮シボ(シワ)を出します。肌の上をサラリとすべる感触が夏の肌に快適で、越後縮は夏用生地として幕府の式服にも採用されました。
機織りは農閑期の女性の主な仕事であり、大切な収入源。脱穀が終わり、初雪が舞いおりる10月ころ、いよいよ糸ごしらえが始まります。


初雪の頃に始まり、雪解けに終わる
越後縮の原料は苧麻ちょま(カラムシ)という植物の繊維。それを細かく裂いてつなぎ、縒りをかけながら一本の長い糸にしていきます。この「苧績み」は、生地の出来を左右する重要な工程で、織りにもまして手のかかる仕事でした。単調な作業をまぎらわすため、女性たちはときには寄り集まって「苧績み」の手を動かし、話に花を咲かせながら、長い冬を乗り越えたのです。
縮が織り上がると、外はもう春の気配。縮は晴天の日を選んで雪に晒されます。解けかけた雪と紫外線によって発生したオゾンが作用し、生地は雪を写しとったかのように白く、布は強く、しなやかな風合いに仕上がります。

雪中に糸をなし、雪中に織り、
雪水にそそぎ、雪上にさらす
雪ありて、縮みあり
雪は縮みの親と言ふべし
(鈴木牧之著「北越雪譜」)

越後縮は雪国の気候と、この土地で培われた女性たちの真心から生まれた織物なのです。

苧績み(おうみ)/繊維を口にくわえ、細かく裂きながら、指でつないでいく。苧績み(おうみ)
繊維を口にくわえ、細かく裂きながら、指でつないでいく。

苧麻(ちょま)と青苧(あおそ)/越後縮の材料。苧麻の繊維を乾燥させて、青苧にする。苧麻(ちょま)と青苧(あおそ)
越後縮の材料。苧麻の繊維を乾燥させて、青苧にする。

麻から絹への転換

麻織物から絹織物へ
幕府から特別な保護を受け、この地方の主力物産として発展した越後縮。その越後縮も新しい時代の波を受け、江戸末期に大きな転機を迎えます。すでに江戸は町人文化の時代。日本各地には続々と新興の絹織物産地が誕生し、原料も麻から次第に絹へと変化していました。

機屋の出現
この転機に重要な役割を果たしたといわれているのが、宮本茂十郎です。宮本は縮の技術を土台に、絹糸による透綾織の試作に成功。高機を導入し、生産量を伸ばしました。「軽快にして快きこと、ほとんど他にその類を見ざる良品なり(北越機業史)」。透綾織は徐々に好評を博し、越後縮を超える生産量となります。
絹縮の需要が増えるにつれて、織物を農閑期の副業から専業にする家庭も現れ、十日町織物は歴史的な節目を迎えます。機屋の誕生です。


高まる名声
機屋の誕生から約100年、この間、十日町は新製品の開発と研究に邁進しました。発表された数々の製品から「絹織物の町、十日町」の名を決定的にしたのが「明石ちぢみ」です。
シャリッとした肌ざわりで人気を呼んだ明石ちぢみ。強撚糸を使った清涼感のある風合いは、湿度の高い日本の夏の着物として高い評価を受けました。しかし、汗や雨などの湿気は強燃系の生地を縮ませる原因にもなり、これが業者の悩みの種となります。


ちぢまぬ明石
そこで、中上善之進、佐野十平、佐野喜平太らの努力で縮みを防ぐ蒸熱加工が開発され、ついに「ちぢまぬ明石」が誕生します。
長年の夢を実現し、喜びにわく十日町。織物同業組合は巨額の予算を投入し、「ちぢまぬ明石」の大規模な宣伝を行います。中山晋平をはじめ、当世一流のアーティストによる宣伝は功を成し、「十日町明石」の名は瞬く間に全国に知れわたりました。


地機(じばた)/越後縮の時代に使われた手織機。腰の動きで糸の張り具合を調整する。地機(じばた)
越後縮の時代に使われた手織機。腰の動きで糸の張り具合を調整する。

高機(たかはた)/明石ちぢみの時代には腰かけて織る高機が導入された。高機(たかはた)
明石ちぢみの時代には腰かけて織る高機が導入された。

■トピック■ 十日町小唄
十日町小唄 「越後名物数々あれど、明石ちぢみに雪の肌」で始まる十日町小唄は明石ちぢみのコマーシャルソングとして作られました。作詞は永井白眉、作曲は中山晋平、振付けには水谷八重子を起用。日本を代表する作家と女優による宣伝活動は、当時の「明石ちぢみ」に懸ける十日町の意気ごみを物語っています。更にデザインは、当時美人画で一世を風びしていた竹久夢二に依頼しました。夢二は、人気の美人画に「ちぢまぬ明石」という明快なキャッチコピーを添え、明石ちぢみを流行の先端へと押し上げました。

冬物誕生

意匠白生地の誕生
明石ちぢみのヒットは機屋の経営形態を一変させます。副業の家内工業から、専業の工場生産制へと変わるにつれ、年間を通して生産できる商品が必要になってきたのです。
そこで開発されたのが冬物の「意匠白生地」。意匠白生地はその品質とデザインのざん新さが話題となり、発売からわずか4、5年で明石ちぢみをしのぐ人気となりました。これをきっかけに十日町は、「織物産業の町」として充実の時を迎え、昭和10年には戦前で最高の生産高を記録します。
しかし、皮肉にもそのころ、日本は第二次世界大戦への道を歩み始めます。


戦後の十日町織物

奇跡の転換
力織機まで戦争資材に提供し、風前の灯火であった十日町の織物。しかし、織物への情熱は絶えることなく、戦後になるとたくましく立ち上がります。「より愛される織物づくりへ」。織物工業協同組合の青年部を中心に商品開発への取り組みが始まり、十日町は息を吹き返します。
昭和30年代には、友禅の技術を導入して後染め物へ進出。昭和40年代に染と織の総合産地体制を築き、十日町は「奇跡の転換」を果たしました。


十日町友禅/西陣から導入した後染めの技術は、十日町友禅として花開いた。十日町友禅
西陣から導入した後染めの技術は、十日町友禅として花開いた。

きものまつり
風薫る5月。歩行者天国となった市街地にはかすり、紬、友禅など、色とりどりのきものに身を包んだ人々が集まります。誇らしげな笑顔と街に響く笑い声。毎年恒例となった「十日町きものまつり」の風景です。
「きものを楽しもう」と小さなパーティーから始まったこの行事も年々大きくなり、今では全国にその名を知られる祭りへと成長しました。
「きものを楽しもう」。きものを愛する想いは時代を超えて受け継がれ、今また、飛躍の時を迎えようとしています。

きものまつりきものまつり



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